小谷城西の山本山城の寝返り

 1570年の姉川の合戦に勝利した織田信長は着々と浅井・朝倉両氏の攻略をすすめていた。 合戦勝利後すぐに小谷城南にある、横山城羽柴秀吉を城代において牽制し、浅井の切り崩しにかかった。
一時期、浅井・朝倉連合軍にかなりの反撃を受けたこともあったが、 翌1571年には、比叡山を焼き討ちにして、さらに浅井氏を圧迫し、小谷城包囲を着々とすすめていた。
ちなみにこの比叡山焼き討ちは、織田がたびたび小競り合いをしていた浅井・朝倉をかくまって援助していたことが 原因と思われる。
 信長の近江侵略はある程度順調に進んでいたものの、とうとう甲斐虎、武田信玄が三河・遠江・東美濃へと1572年に侵攻した。当時、破竹の勢いで勢力を拡大していた織田信長に唯一匹敵する勢力で、京を制圧していた信長が若干優位ではあったが、勢力はほぼ拮抗していたと思われる。信玄の侵攻に呼応して浅井・朝倉も兵を進めたものの、途中朝倉は戦線離脱。朝倉には朝倉の事情があったのだろう。
 織田・武田の直接対決になるかと思われたが、信玄が駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で病死。(1573年4月)兵を甲斐へと引き上げてしまった。
 信玄の死まで伝わったかどうかは分からないが、兵を引き上げたことは確実に知れ渡っただろう。
信長は浅井・朝倉の追討準備にかかり、また信玄の脅威がなくなったことにより、調略もスムーズに進んだに違いない。 そして、とうとう小谷城に西に位置する阿閉貞征(あつじ さだゆき)が城主である山本山城が織田方へと鞍替えしてしまい、小谷城はほぼ織田勢力に包囲されることとなった。

小谷城3


小谷城の合戦における布陣図⇒小谷城の合戦布陣図3D

浅井だけでなく、朝倉にも織田調略の手は伸びていた

 小谷城の合戦は、朝倉の滅亡にまでつながる重要な合戦である。オイラが知っている範囲(すごく狭いが・・)では、小谷城の救援のため、朝倉義景が2万の兵を率いて木之元あたりか大獄砦付近に陣取ったものの、織田軍に急襲され、撤退。逃げに逃げるが、一族の裏切りによって、自害にまで追い込まれるといった感じで記憶している。 この間わずか1週間程度。
どこかの漫画や本によっては、信長が急遽、機転をきかせて朝倉を滅亡させたように書いているが、オイラは機転を利かせただけでなく、小谷城包囲前からすでに信長の調略は朝倉氏内部(義景に反感をもつ一族衆など)までかなり浸透していたように思っている。
 そしてちょっと暴論かも知れないが、織田信長の小谷城攻撃は朝倉を効率よく屠ることも視野に入れたものであったと言えないだろうか?
 小谷城を包囲すれば朝倉が救援に来ることはまず間違いない。信長は朝倉の本体を誘い出したと思えてならない。
当然、状況はそのときそのときの状況(天候、実際に寝返ってくるかなど)にも影響されるから、10日間程度で滅亡させられるとまでは思っていなかったかもしれないが。

 これに似たことが約10年後武田氏討伐の際にも起こっている。このときは武田家に臣従していた木曽家がまず裏切り、それをきっかけに武田勝頼が軍を起こし、そして織田軍が救援のため木曽へと侵入し、それとほぼ同じくして武田家一族衆の穴山信君徳川に降伏し(すでに織田軍の侵攻は知らされていたのだろう)、甲斐への進軍の気配を見せた。高遠城の仁科信盛が奮闘し、武田家滅亡を若干遅らせたものの、焼け石に水で、叔父の武田信廉も逃亡し、約2,3ヶ月で武田は滅亡している。

織田にとって、このとき(1573年ごろ)の浅井はもはや赤ちゃんの小便程度の存在でしかなかったはずで、滅亡はすでに時間の問題であった。織田は浅井を長囲していれば自滅させることが出来たはずである。
問題は浅井を攻撃するたびに援軍として出てくる朝倉の存在で、これを壊滅させれば、浅井はもう手も足も出ず、織田に降伏するか滅亡するしかないのだ。

 視点を移し、朝倉方からみるとどうだろう。武田軍の撤退は遅くとも5月中頃には知った筈である。朝倉方の多くの武将は織田軍が近畿・北陸に向けて全力を傾けてくると予測したはずである。またこのころ織田軍より多くの朝倉方の武将が調略を受けていたに違いない。
そして調略を受けた多くの朝倉方の武将達は織田軍の出方などを見極め、情勢を見た上で反旗を翻そうと思っていたはずである。
もうすでに直接援軍として駆けつけてくれる有力な大名もいない。あえているとすれば風前の灯の浅井氏だけです。

 7月には将軍、足利義昭を京より追放。織田氏が確実に勢力を拡大していき、先述のとおり阿閉貞征がの山本山城が織田方に寝返ってくると、3万の軍勢を率いて、小谷城を取り囲んだ。
義景は織田軍の小谷城へ向けた出陣を知ると、全軍に出撃命令を出した。ところが朝倉景鏡魚住景固はこの命令を拒否。すでに内応が出来ていたのでしょう。
 義景は総大将として、出撃していくことになる。

名門朝倉氏の滅亡

 8月10日に山田村に織田信長は布陣し、朝倉と浅井長政立て篭もる小谷城を分断した。
朝倉軍は大獄砦の北方(山田村の北西付近)、田上山付近に陣取っていたと言われている。 織田の大軍にブルッてしまったのか、8月12日に焼尾砦(下図参照)を守っていた浅見対馬守が降伏。この降伏を機に、織田軍は豊原寺西方院ら数百の兵が守る大獄(おおづく)砦に猛攻撃を加え、陥落させてしまう。
 この大獄(おおづく)砦の陥落により、小谷城救援は困難な状況となり朝倉軍は、撤退か一矢報いるか軍議が分かれるものの、13日に義景は撤退を指示。ひとまず敦賀へ向かおうとしました。

 この動きを察知した織田軍は追撃を開始します。朝倉軍は織田軍が追ってくるとは思っていなかったのか、追撃してくる織田軍にビックリしてしまい、這う這うの体で逃げ出すものの、近江と若狭の国境付近の刀禰坂で織田軍に捕捉されてしまう。ここで踏みとどまって、義景を逃がそうとするものの、組織だった行動が出来なかったためか、一部奮闘する者はいたが壊滅し、多くの朝倉家の重臣が討ち取られ、以前美濃の当主であった、斎藤竜興もここで命を落とします。
 疋田城(敦賀市疋田)まで撤退できたものがいたものの、篭城準備も整っていない状況だったためか、14日の織田軍の攻撃で落城。朝倉軍壊滅の報は、すぐに越前中を駆け巡ったのか、朝倉につくか、織田につくか迷っていた多くの越前の豪族が織田信長に恭順し、18日には悠々と織田信長は府中(現、武生市)に到着。先遣隊はそれより先に北ノ庄あたりまで来ていたでしょう。また16日には朝倉を見限った平泉寺の門徒によって、一乗谷を丸焼きにされています。
 織田軍は残る朝倉勢力、大野地方は攻め入っていませんが、この地方を管轄していた朝倉景鏡が逃げてきた義景の討ち取り(20日)、信長に義景の首級を持参。ここで朝倉氏の越前統治は幕を閉じます。

 ここまでを振り返ると、朝倉義景は忠誠心の深かった家臣を退却戦でほとんど失い、見限っていたものは越前の地に残り、情勢を見た上で、内応するかどうか迷っていたものばかりだったと推測できると思います。越前大野はかなりの山岳地帯でちょっと偏狭の地であったものの(この時代は今以上のはず)、美濃と接しており織田と接触する機会は多かったはず。
 刀禰坂、疋田城以外、越前内で組織的反攻がほとんどできていないことを考えると、朝倉方の多くに織田の内通の手が伸びていたと考えておかしくはないと思うがどうだろう?

 街道が整備されていていて、進軍しやすかったとも、後の賤ヶ岳の戦いの秀吉の行動からも考えられなくはないが、あのときは身内同士ということあるし、誰がどこを所領としているかなどほぼ把握出来ていた状態であるから、全く同じ状況とは言えない。すでに前田利家という有力な武将が内応していたようだし・・。

話を戻し・・・。予想以上にあっけなく朝倉を攻め滅ぼした織田軍は28日に小谷城の南、虎御前山に布陣。

小谷城攻防戦

 援軍の望みがなくなり、もう落城は時間の問題となった小谷城であったが、浅井長政は降伏しなかった。
すでに大獄砦は織田の手に落ちていたものの、上参考図のとおり、山王丸、京極丸、本丸と小谷山頂に 連なる小谷城は堅城であった。
 抵抗激しく若干攻めあぐねるものの、羽柴秀吉が清水谷(きよみず)から一気に京極丸へ攻め上り、激しい攻撃のためか 守っていた浅井井規(いのり)三田村国定大野木秀俊が降伏し、陥落。
 これにより、小丸を守っていた父浅井久政と本丸の長政は分断されてしまった。
 そして、京極丸より夜通し小丸を攻撃。浅井久政は力尽きて自害する。
28日に信長自身が京極丸へ入り、指揮。9月1日頃に信長は長政篭る本丸へ総攻撃を開始。長政はもはやこれまでと200ほどの兵を引き連れ、敵中に突入、しばらくすると切腹する場所を求め、近くの赤尾屋敷へと行き、自害。
浅井一族は滅亡した。


参考書籍

百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。

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関連サイト

戦国時代の合戦データベース
姉妹サイト。だいぶネタつきましたが(笑)、日本各地の戦国合戦について簡単に紹介しています。
氏別合戦表
武田氏
桑原城の合戦より〜田野の合戦
織田氏
小豆坂の合戦より〜


みんなで作る戦国マップ

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動画でお城、古戦場

当サイトで撮影したお城、古戦場を動画で紹介。Youtube版。