第一次上田城攻防戦 天正13年

 徳川家康上杉景勝の信濃の国をめぐっての争っていたころ、真田家当主の昌幸は強国に挟まれていた状態で、最初は徳川に恭順していた。しかしながら、家康が真田の沼田城を北条に明け渡すように言われると、怒って徳川家の傘下から上杉へと移った。当然、上杉の背後には豊臣秀吉という力強いバックボーンがいる。
当時、国境にいる小大名がそのとき、そのときで領主を変えるのは珍しいことでも恥じることでもなく、乱世を生き抜くためにはこうした処世術が必要になるわけだが、徳川家康にしてみれば、見逃すことは当然出来ない。他の小大名達に伝染しても困る訳で・・。
1585年7月下旬に軍勢を整えて出陣。このとき、家康も出陣する予定であったようだが、日頃の悪さが祟ってか、病気で生死の淵を彷徨っていたらしい。

 このときの両軍の兵力だが、真田の3000に対して徳川勢は約8000と言われているが、どうも疑わしいようで最低でも徳川勢は10000を超えていたのではないかと言われ始めている。
というのも城攻めをするには少なすぎる兵力だからだ。この第一次上田城攻めは大失敗に終わっていることから、『負けてもしかたなかった』と思わせるためだろうとしている。
 確かに後の第二次上田城攻めは40000近くで取り囲んでいるし、その他の攻城戦においても約5、6倍以上の兵力で攻めるのが常套だった。 (本当は家康も出陣していたのかも・・)

 家康の代わりに大久保忠世、鳥居元忠、平岩親吉が出陣。

 8月2日に総攻撃を開始した。
このころ(1585年)の上田城は真田昌幸が入ってから2年程度しかたっていなかったため、完璧な状態ではなかったようだ。
 徳川勢は大手門をあっさり突破し、二ノ丸を攻略するべく殺到。ところがこれが真田昌幸の罠であった。
 徳川軍が二ノ丸に張りついたところで、大木を落としたり、鉄砲をあびせかけ、徳川軍は大混乱に陥った。
 しかも徳川軍は後続からドンドン押しよせ、二ノ丸周辺の部隊は堪らず逃げようとするから、混乱は増幅された。
また、上田城の構造が迷路のように入り組んでいたことから、二ノ丸周辺から逃げようにも、うまく逃げることが出来なかったことが被害を多くした。なんとか城内から逃げ出したものの、東南の神川近くで真田の追撃隊に追いつかれ、コテンパンに叩きのめされてしまった。。

 この上田城の敗北の後、徳川の家臣であった石川数正が秀吉に寝返り、そして徳川家康は毛嫌いしていた豊臣家に臣従している。

上田城の縄張り
※現存の上田城は真田昌幸が築城した当時の面影はあまりないようです。家康が真田昌幸を追い出した後、徹底的に壊したそうです。

第二次上田城攻防戦 慶長5年

 徳川秀忠の関ヶ原遅参の原因になった、第二次上田城合戦。このときは上田城を完全攻略することは目的ではなかったようで、幾らかの打撃(心理的なことも含め)を与えるのが目的だったようだが、逆に大打撃を与えられてしまった・・。

 1600年9月6日に徳川軍は上田城周辺に到着し、以前のような失敗をしないため、上田城の周辺に刈田狼藉を実施し、真田軍を城から誘き出す戦術をとった。
 ちなみにこのとき真田軍は約3000、徳川軍は約40000。  徳川軍による、上田城下の刈田狼藉にたまらず真田軍は城から討って出てきて、徳川軍に戦いを挑むが、兵力差がありすぎ、城へと敗走し、徳川軍が追撃を開始・・・。これが真田軍の仕掛けた罠だった。
 真田軍の伏兵にあって、堪らず敗走・・・。  関ヶ原の合戦に間に合わなかった西田敏・・・秀忠津川雅・・・家康に、たいそう怒られたそうな・・・。


参考書籍

百姓から見た戦国大名 ちくま新書
この本を読むと、戦国当時の百姓達のイメージが変わるかも知れません。百姓達は決して殿様に頭を下げてばかりいて、弱弱しく生きていたのではないことが分かり、また当時の合戦の多くが領民を飢餓から救うために行われたと読み取ることが出来ます。当時、多くの一般庶民は餓えていたんですねぇ・・・。かなり参考になります。

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関連サイト

戦国時代の合戦データベース
姉妹サイト。だいぶネタつきましたが(笑)、日本各地の戦国合戦について簡単に紹介しています。
氏別合戦表
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桑原城の合戦より〜田野の合戦
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