戦国の部隊構成
屏風絵をよく見ると
下は屏風絵の一部であるが、よく見てみると、戦っている兵士ばかりではない。
旗を持つものや馬を引くものも描かれている。また、楽器をもつ雑兵も描かれていることもある。
楽器をもつ雑兵は味方を鼓舞したりしたのだろう。
今でいうなら『ロッキー』のBGM、『地獄の黙示録』でいうなら
『ワルキューレ』といったところか。
屏風絵はかなり誇張されている部分(ある程度身分の高い者を選んで)もあって、描かれない雑兵達はたくさんいる訳だが、実際はどうだったのだろう?
屏風絵からも若干分かるが、まずお偉いさんしか馬に乗ることはなかった。(良い鎧、甲をつけている?)そのお偉いさんには部下として戦闘要員となる足軽が何人かいる。そして、戦闘要員ではない、旗持ちや、荷物(食料等)を運ぶ者、、武器を持つ者(槍持ち等々)。 大名によって差はあるが、約100石を殿様から与えられた武士だと、まずその武士が騎馬に乗って、足軽が2人程度、他の非戦闘要員(旗持ち、荷物運び等)が5人程度だったようだ。
これらのことは現存する当時の資料からも分かっている。
そんな下級武士と高給取りの上級武士が集まって、一つの部隊が出来上がる。その部隊の中には、槍、弓、鉄砲を持つ者、そして非戦闘要員がいたのだ。ちなみに足軽が持つ武器はたいてい自前のものだった。
そして、たくさんの部隊が集まって大軍勢となるのである。
--------------------------------------------------------------
※太閤検地前は石高制ではなく、貫高制で、田んぼ一反が約500文、畑が約160文と銭に換算し、貫高に応じて、動員する兵が決まっていた。
--------------------------------------------------------------
だが信長の場合、おそらくは京、堺などを手中にして、お金をがっぽり巻き上げてからだと思うが、武器を貸し与え、鉄砲組や足軽組などを組織したようだ。また、専属の兵隊も組織したようである。(兵農分離)京も堺も商人の町で当時の大都会・・・。そうしないと兵隊が集まらなかったという実態もあったのではと思うが・・・。
また、1578年頃になると、2,3カ国以上も跨いで遠征するようになり、必然的に専属の兵隊が入用になったんでしょうね。
--------------------------------------------------------------
※兵農分離 戦国期、ほとんどの兵隊は専属ではなく、合戦のとき以外は田畑を耕す農民が多かった。
税として兵役を課しのだが、戦国後期は現代のアルバイトのような感じで兵隊を雇用するようになった。
--------------------------------------------------------------
|

武田騎馬軍団は存在しなかった??
上記のことから、もうお分かりだと思うが、武田騎馬軍団は存在しなかった。TVや映画などでは勇猛な騎馬軍団の突進を見ることがあるが、あり得なかったのだ。
だから、川中島の戦いの屏風絵を見ても、どこにも騎馬軍団はいないし、それは長篠の戦いの屏風絵でも同じである。また当時の資料を見ても、武田軍を上杉軍や織田軍などと比較しても、騎馬武者と全軍の比率は大差はない。
さらにいうと、当時はサラブレッドがいない・・・。一回り小さい馬で、道産子のような馬であった。
競走馬は約時速60キロぐらいは出るらしいが、戦国当時の馬はそんなスピードは出なかった。さらに重い甲冑を身に着けているし、平坦な地形ばかりでもない。とても、TVのような騎馬の突撃は無理な状況であったのだ。
なのでたいてい騎馬武者が戦う場合は、馬を下りて戦ったのである。屏風絵を見ると馬を下りて、下人に馬を引かせているところも描かれていたりもする。
(上屏風絵の右上あたり)
ただし輸送の役にはたったはずで、遠くまで行軍する場合は馬の多さで現地への到着速度は変わったことだろう。
|
|
|