大江戸風俗
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江戸時代の風俗産業、吉原の女郎の紹介等

大江戸風俗

■庶民のための風俗



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局見世
吉原の女郎の項でも簡単に説明はしたが、吉原の格式の高い、大きなお店の太夫クラスと最後までお遊びをしようと思うと、一般庶民の年収分は消えてしまうほどで、太夫の下のクラスであっても半年分はかかってしまう費用であったから、庶民は局見世を利用した。そして当時は非公認の局見世も沢山あった。
結構な賑わいであったようで、特に狭い通路であったから、人と人とがすれ違うのも、 たいへんだったようである。
局見世は現在で例えるなら本番ありのヘルスという感じで、お店によっては金額も違った。女性の人数はだいたい20名ぐらい。高い局見世は金見世といって、名前の由来は金を一分払うところから来ている。ちなみに金一分は1200文で、当時局見世の平均価格が400文から600文近くだったから、今でいうなら高級ヘルス店といったところ。

夜鷹
時代劇でたまに耳にするので、なんとなく想像がつくかと思う。現在でいうと”立ちんぼ”といって良いだろう。ただし現在と違うのは彼女達のお給料で、一人のお客で屋台のお蕎麦一杯と変わらない値段だった。お客さんが払うのは、その倍から3倍はあったろうが、雇い主が、がっぽりと持って行った・・。
彼女達の年齢は幅広く15歳から70歳近いお婆さんもいたようである。 ちなみに夜鷹は関東での呼び名で、関西では総稼と言って、地域によって呼び名に違いがあった。

行商とは名ばかりの風俗嬢たち
提重綿摘という素人同然の風俗嬢が存在した。 提重とは手提げで持つことの出来る重箱のことで、この中に食料を入れて、訪問販売をしていたのだがそれは表向きで、女性は体を売った。
綿摘は農家で綿摘を手伝う名目で、春を売ったようである。後に農家のみならず、街にも出て商売したらしい。
その他枝豆売を称した風俗嬢も存在した。出会い系ではないが、これらはほとんど援助○際に近いものである。

料理屋さんやお宿
江戸時代、大きな街道では宿場があり、そして、街道のみならず水茶屋や待合茶屋などの休憩所が存在した。今で言うなら、飯屋や喫茶店やホテルといったところである。
そういったところにも、春を売る女性が存在し、非公認が多いものの、一部幕府が公認したものもあった。
これらの風俗嬢を”飯盛女”とか”宿場女郎”と言って、有名な街道(東海道など)にはたいてい存在し、 参勤交代のときは忙しかったようである。
彼女達はお店が雇った女性で、お店の方も彼女達に客の要望に応えるように仕込んでいた。

江戸時代のストリップ劇場
意和戸という見世物が現在のストリップにあたるもので、粗末な小屋みたいなところで、着物をまくりあげて女性の陰部を見せるものだった。これらの女性の大半が、女郎上がりの女性だったらしい。
意和戸の名前の由来は, 天細女命(あめのうずめのみこと)が岩戸の前で陰部が見える姿で踊った伝説から来ている。
江戸時代末期になると、”やれ吹け、それ吹け”(客が息を吹きかけて、着物をまくる見世物)””やれ突け、それ突け(客が棒で女性の陰部をつく見世物)”へと発展していった。
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