大江戸風俗
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江戸時代の風俗産業、吉原の女郎の紹介等

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■吉原の女郎



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リッチな人々が通う吉原 吉原の女郎さんを説明する前に・・・、吉原は慶長17年1612年(というと豊臣家滅亡前)に小田原の北条家の浪人、庄司 甚左衛門が散らばっていた風俗店を一ヶ所にまとめたところ(難波町、高砂町、住吉町あたり)からはじまり、明暦3年(1657年)の江戸の大火事で、浅草に移った。

さて、吉原の女郎だが階級があった。レベルの高い女郎をよく耳にする花魁と言ってその最高位の女郎を”太夫”と言った。ちなみに太夫とは中国の5位以上のもののことで、下人が天皇などに会う際に、(もちろん要請があってのこと)5位以上官位がないと会えないから、臨時で位を与えたことがあり、この前例から芸人などがお金を払って官位を得ていたことにならって、女郎の最高位を太夫と言った。
または御職とも言う。 太夫は吉原で言われたことで、それ以外の風俗地域では恐れ多くて、太夫とは言わなかったらしい。
先述した花魁だが、通常は位の高い(指名が多い、儲ける女郎?)遊女を指したが、当時のお客さんで、低いレベルの女郎にも、歓心を買うために花魁ということが多かったから、女郎、遊女全体を花魁と言うようになった。
江戸時代初期、女郎の髪型 江戸時代初期、女郎の髪型 江戸時代初期、女郎の髪型

(上の図)左から江戸初期、江戸元禄期、江戸中期の女郎の髪型
(手書きで分かり難いかも)
上の絵(自作・・・)は花魁の髪型の変遷で、初期の頃は派手な感じはなく、元禄時代あたりから、女っぽい雰囲気になってくる。これは服装に関しても当てはまる。 映画『さくらん』のサイトをチラッと見てみましたが、あの髪型は江戸中期の感じである。 ちなみに髪の飾りつけは吉原よりも、大坂、京都の方が派手であった。
さて最後に吉原でのお遊びについては、今の高級クラブか高級キャバクラに若干近い感じで、同じ女の子に通って二回目まではエッチなことは出来ない。3回目でやっと、同じベッドにということになる。これを馴染という。稀に女郎がほれてしまって、二回目でエッチなことをしてしまうことを”裏馴染”という。 この馴染になるまでに大金をはたく訳だが、それは” お遊びのお値段は?”をご覧下さい。
現在に例えるなら高級クラブに大会社の社長や重役などしか行けないのと同じで、当時も吉原の遊郭は大金持ちのお遊びであったのは間違いない。

局見世の女郎
吉原遊郭には高級店が連なる中、すぐにベッドインできるお店もあった。 それが、局見世と呼ばれるものである。局とは簡単に言うと小さな部屋ということで、現在で例えるなら店舗型のヘルス店の一室みたいに思えば分かりやすい。ここで働く女郎は吉原の中では、最下級の地位で、お客のお遊び代もかなりお手ごろな値段で、一般庶民でも遊べる値段であった。
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