戦国時代の性事情
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室町、安土、桃山時代の性習慣、風俗などの紹介

戦国時代の性事情

■女子校生と結婚した戦国武将たち



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有名な戦国武将と正室、側室の結婚した年齢を見てみると
現代でいうなら女子中学生、女子高校生と変わらない年齢の女の子と結婚をしていた戦国武将たちだが、ほとんどの場合は当然、政略結婚であった。とはいうものの、ちゃんとエッチをしている訳で、その証拠として子供も生まれている。では戦国を代表する武将達の結婚をみてみよう。

織田信長の場合は有名な斉藤道三の娘”帰梗(濃姫)”と結婚。信長は15歳で帰梗(濃姫)は10歳(15歳の説も)であったとされている。
豊臣秀吉は後の北政所、おねと結婚し、秀吉は26歳であるが、おねは14歳。また彼の側室を見てみると前田利家の三女、摩阿(まあ、後の加賀殿)は14歳で秀吉の側室になっている。
徳川家康は15歳ぐらいのときに関口親永の娘である瀬名(後の築山殿)と結婚し、信長、秀吉の嫁さんに比べれば年上だが、彼女は当時18歳ぐらいといわれており、2年後には信康を出産している。
彼の側室を見てみると結構ギャル好きだったのか、若い(若すぎる?)女の子が結構いる。有名なのは昌子(後の西郷局)で17歳で側室となり、後の将軍”秀忠”と忠吉を出産している。
そして正木邦時の娘であった蔭山殿はなんと14歳。嘘か本当か分からないが、彼女は遊女だったとも言われている。
そして最年少が13歳で側室になったお八の方(お勝、お梶)で、家康との年齢差は36歳。彼女には面白いエピソードがあり、成長して松平正綱に嫁いだが、彼の夜伽を拒否してまた家康の元に戻ったらしい。おじ様好きだったのか?

甲斐の虎、武田信玄はかなりの美少女好き(美少年も好きだったが・・)で初婚は彼が13歳のときに上杉朝興(ともおき)の娘と結婚し、彼女は15歳であったとされている。13歳のチェリーボーイに15歳の少女はちょっと大人びていて、ドキドキものだったであろう。
しかしながら彼女は難産が原因で他界してしまい、次に公卿の三条公頼の娘(三条夫人)と16歳で結婚し、彼女も同い年であった。(ってことは上杉朝興(ともおき)の娘と信玄は14歳くらいで子作りに励んだということか?)
彼の側室で後に武田家を滅ぼしてしまう勝頼を生んだ諏訪御料人は12歳(13歳とも)で相当な美少女といわれている。ちなみに勝頼を生んだのは彼女が15歳ぐらいのとき。国民的美少女、後藤久美子もかなわないかもしれない諏訪御料人はその美貌と若さから、正室の三条夫人や側室からかなりいじめられて、その心労からか、25歳ぐらいで亡くなっている

有名どころの戦国武将だけでなく、多くの武将はこのころ10代で結婚しており、それが当時は当たり前のことであったのだろう。
現在、このようなことは変態に見られるかもしれないが、なんかとても健全な気もする。思い出して欲しい。中学、高校生の頃、男なら女性と、女なら男性とエッチしたくて堪らなかったはずで、この時期に異性と性行為をするのはとても理にかなっているように思う。違うかなぁ・・・。
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