戦国時代の合戦事情
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長篠の合戦 〜1575年 天正3年

どんな戦いだったのか?
長篠の戦いは学校では、織田、徳川連合軍の大量の鉄砲が武田騎馬軍団をやっつけたと習ったように 記憶している。しかしながらこのページを見ている方はもうご存知だと思いますが、鉄砲の3段撃ちも 武田騎馬軍団もなかったのである。
では戦いはどのようなものであったのだろうか?
資料によると、合戦は朝の6時より始まり午後3時ごろまで続いたらしい。 おおよそ9時間にわたって、長篠では激闘が行われていたのだ。
兵力は色々と言われているが、織田、徳川連合軍約3万、武田軍が約1万4,5千ぐらいじゃないかと思う。
連合軍の鉄砲の数も3000丁とあるが、多く見積もって1000丁から1500丁程度が定説になりつつある。
黒澤映画『影武者』では10分もかからずに武田軍を粉砕していたが、戦にかかった時間からもわかるように、かなりの激戦だったのである。

下の図(一番下の図)は両軍の布陣図であるが、この布陣図を見て思うのが、武田軍の布陣が陣地を攻めるための陣形であることが分かる。このことから、連合軍はしっかりとした陣地を構築していたことが分かる。

戦闘開始は朝6時、先陣は山県隊。連合軍の右翼、徳川勢を攻めた。 このときたぶん、『戦場を間近でみると』で書いたように、鉄砲玉をかい潜るように前進し、弓矢や鉄砲を山県隊も打ったに違いない。 しかし、鉄砲の数が違い、さらにしっかりとした陣地で守られていることもあって、つけ入る隙を見出すことが出来ず、損害が出始め撤退。続いて二番手、三番手と同じように波状攻撃をかけたが、突破するまでに いたらなかった。
10時ごろに武田勝頼の総攻撃の命令が出たとされている。
なぜ総攻撃を命じたかは、分かる術はないが、右翼馬場隊が丸山付近の佐久間隊を撃退した ことにより、織田軍に勝てると錯覚をしたとも言われている。また、長篠城の抑えとして残した部隊が徳川の別働隊によって、撃退され背後にも敵を抱えることになり、前面の敵に集中攻撃をかけるしかなかったとも言われている。
総攻撃となって乱戦となり、柵を超えて勇猛に戦う武田軍であったが、兵力に差があり過ぎたこともあって、部隊長が討死しはじめ、連合軍が反撃を開始。武田軍は退却を始めるが、時すでに遅しで、連合軍の猛烈な追い討ちにあい、武田の重臣クラスの者まで討死してしまう散々な結果となった。

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