戦国時代の合戦事情
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PC版『戦国時代の合戦事情

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三方ヶ原の合戦 〜1572年 元亀三年

上洛を果たすべく?山が動く
元亀三年(1572)10月3日、武田信玄は遠江制圧すべく出陣をした。本当は10月1日に出発の予定であったらしいが、どうも体調が良くなかったようで、すでに信玄の体は病魔に犯されていたのではと思われる。
10月10日には南信濃と遠江の国境を超えて、新たに武田家に下った犬居城へと到着すると、息子勝頼に別働隊を任せ二俣城の攻略に向かわせ、自らは只来城、飯田城、久野城を次々と攻略していった。
信玄本隊は順調に徳川の支城を攻略していたが、元康(徳川家康)も黙っていたわけではなく、三箇野一言坂で迎え撃ったが、約2万の大軍を擁する武田軍にとっては、赤ちゃんの小便程度のもので、徳川軍をはね返している。
このとき息子勝頼は、二俣城の攻略にてこづっており、信玄本隊は駿河と遠江国境付近の掛川城高天神城を放っておき、勝頼の別働隊に合流した。(11月頃)
二俣城は決して大きな城ではなかったが、天竜川沿いの断崖にあり、非常に攻めにくい地形に築かれたお城であった。そしてこの城の開城まで2ヶ月間かかってしまう。

いよいよ浜松城へ
掛川城高天神城は残っているものの、遠江の東はほぼ制圧し、浜松城は半分裸のような状態になった。
そして武田軍約25千の本隊は浜松城を目の前に横切って、西へと向かった。当然ながら、信玄はこの時点では浜松城を攻めるつもりはなかったと思う。城には約1万の兵がおり、力攻めで勝つのはほぼ不可能な状態といえるからだ。
このとき信玄は自分の余命の残り少ないのを知っているから、家康を誘きだすため、このような行動をとったように言われているが、はたしてそれは本当だろうか??
仮に三方ヶ原で信玄と家康の戦いが起こらなかったとしても、信玄は西の三河の野田城攻略へと向かったのではなかろうか?徳川軍が篭城する可能性も決して少なくはない。浜松城の攻略は西からの織田軍、岡崎からの援軍も完全遮断し、浜松城を丸裸にしてじっくり包囲するつもりであったんじゃないだろうか?

実際は家康は討って出たが、これは当時としては不思議なことではないように思う。 織田信長の桶狭間の合戦でもそうだが、自分の領地を敵軍に侵されて城に完全に篭ってしまうことは、領民や近隣の地侍に対して面子もたたなくなってしまうし、領主としての信頼も丸つぶれとなるから、劣勢であっても、結構討って出ることは多いのだ。
当時の元康は三河にもまだ領地をもっており、信頼丸つぶれを恐れて浜松城を出撃することになったと考えるのは自然だと思うがどうだろう。
もちろんそんな元康の心中も察した上で、信玄は誘い出したとも考えられるが、篭城する可能性だってあるし、ちょっと信玄を美化しすぎのようにも思える。
真実は信玄しか分からないことだが、単純に誘き出すとか考えずに、浜松城を通り過ぎるという威嚇をし、西の支城を攻略してから浜松城を落城させるつもりであったが、当然背後からの攻撃も予測できるから、それに備えながら西へと向かう途中、元康が出撃。
有名な三方ヶ原の合戦の事実はそんな感じだったんじゃないかなと思う。

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